Wednesday, October 12, 2011

アール・ブリュット美術館

同じアルプスでも、スイスにはフランスとは違った良さがあった。

空港はジュネーヴを利用したのだが、ここはほとんど見ていないので多くは語らないほうがいいのだろうが、コルナバン駅周辺はごく普通の街だったとだけ言っておこう。

大きな駅周辺の例にもれず、とにかく落書きが多かった。ロンドンのようにやたらとうまくて、もし家の近所に描かれたら「よくぞ描いてくれました!」と拍手を贈りたくなるようなストリート・アートではなく、大半が芸の無い単なる落書きだった。

フランスから車で入ったのだが、ジュネーヴに着くなり街全体が合理的になったのが目についた。アメリカの中規模の都市といった印象だ。
装飾的な建築物はめっきり減り、工場や会社が突如として目立ち始めた。

あまり心引かれる景色ではない。スイスのイメージと違う。

きっとあちこち行けば素敵なところはいくらでもあるのだろうが、宿泊するのはローザンヌ。ジュネーヴは単なる通過地点。

約三十分間電車に揺られ、私たちはローザンヌにたどり着いた。母娘の胸は期待に膨らんでいた。アヌシーとはまた違った美しさがあるのだろう。古都だと聞いていたこともあり、スイス版京都といった感じの場所を思い描いていた私は、カメラのメモリーカードが足りなくなるのではないかと、ただそれだけを心配していた。

そんなものだから、到着してびっくり。普通に都会じゃないか。

ウーシー地区に泊まれば湖畔の美しい町並みを楽しめたのかもしれないが、目当てがアール・ブリュット美術館だったので、あえて中心地を選んだ。
勝手な想像をしていた私が悪い。がっかりしてなんていたらローザンヌに失礼だ。美術館に行ければそれでいい。

アール・ブリュットとはアウトサイダー・アートのことである。

本来は伝統的な芸術の教育を受けていない人間による、誰に媚びる訳でもなく、既成の流派に属することも無く、ただ自由に表現した芸術作品を指しているようだが、今日では障がいを抱えた人や、精神病患者、犯罪経歴のあるなど人の作った作品をアール・ブリュットと思っている人も多いようだ。

ホテルから徒歩五、六分に位置するこの美術館、開館直後に行ったというのにものすごい人出だった。

ここに来るためにわざわざローザンヌを訪れる人も多いと聞いてはいたが、まさかこれほど人気だとは思わなかった。

写真を撮ってはいけなかったので、ここではネットからの拾い物を載せることしかできないのが残念でならない。まあいい。ちょっと見ていただきたい。







いびつな造形、毒々しい色使い、異様に細かい仕事。
恐ろしいまでのエネルギーを感じませんか?
制作することへの並外れた執着がこのエネルギーを生み出しているのだろうか。

とんでもなく魅力的だったのだが、とんでもなくぞっとさせられた。

例の「恐ろしい子!」って奴ですな。

とりわけ、Paul Amarという方の作品は観ていて目まいを覚えた。
これが彼の作品だ。

全て貝殻で作られているのだ。よくもまあ貝殻だけでこれほど凝った作品を生み出せたよなあ。どれだけ根気のいる作業だっただろう。何を思ってのことなのだろうか。

彼のものに限らず、この美術館にある作品たちは、やはり他とは違っていた。館内に充満する空気からして違っていた。
作家たちの頭に渦巻いていた、漠然としてはいるが、何かを表現したくてたまらない。だが、その「何か」がわからなくて、それが何なのかを突き止めるためにも制作せずにはいられなかった、そんな物語が私の脳内を嫌でも侵略してきたのだ。

どんなにわけのわからないアートでも、普通はバランスだけは悪くなかったりするのだが、アール・ブリュットは違う。
はっきり言ってバランスは悪い。その崩れ加減が、生き物には避けて通れない生と死を否応無しに見せつける。通常のグロテスクな芸術の中にはあっけらかんとした感じがある。一見生々しく見えても、それが意図したものである限り、観ているこちらは興奮さえすれど、不安になることは少ない。当然だろう。見せるためだったら、わざわざ他人が不快になるようなものを作ったりはしない。

アール・ブリュットの多くは、それが側にあるというだけで落ち着かなく、目と目の間で指を動かされるようなむずがゆさとを覚え、得体の知れなさに不安感を煽られる。
それはどういうわけか、私に古代人の作ったものを連想させる。
モアイ像などに通じるものがある、と言うのは語弊があるかもしれないが、同じように脳内にこんがらがった糸を詰め込まれたかのような錯覚に陥るのだ。

あそこは本当に、ローザンヌで何よりの収穫だったよ。

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